教えのやさしい解説

大白法 440号
 
三 益(さんやく)
 三益(さんやく)とは、「下種益」「熟益(じゅくやく)」「脱益(だつやく)」の三種の利益(りやく)をいいます。
「下種益」とは、成仏の因となる妙法の仏乗種(ぶつじょうしゅ)を衆生の心田(しんでん)に植(う)えることをいい、「熟益」とは、植えられた種子を育成していくことで、機根を練(ね)り上げ、熟成(じゅくせい)させていくことをいいます。そして「脱益」とは、熟成した果実を刈(か)りとることで、解脱(げだつ)・成仏の得益(とくやく)をいいます。
 このように、三益とは、仏が衆生を即身成仏の境界へ導いていくプロセスを明かしたものであり、日蓮大聖人が『曾谷(そや)入道殿許(がり)御書』に、
 「所詮(しょせん)は彼々の経々に種・熟・脱を説かざれば還(かえ)って灰断(けだん)に同じ、化(け)に始終(しじゅう)無きの経なり」(平成新編御書 七七八頁)
 また『秋元御書』に、
 「種・熟・脱の法門、法華経の肝心(かんじん)なり」(平成新編御書 一四四七頁)
と仰せられているように、爾前権経(にぜんごんきょう)には絶(た)えて説かれない、法華経のみの重要な法門なのです。
 大聖人は『観心(かんじんの)本尊抄』に、これら三益を法華経本門の上から、
 「久種を以て下種と為(な)し、大通・前四味(ぜんしみ)・迹門(しゃくもん)を熟と為して、本門に至って等妙(とうみょう)に登らしむ」(平成新編御書 六五六頁)
と示され、釈尊は、一往(いちおう)、五百塵点劫(じんでんごう)の昔、衆生に対して下種結縁(けちえん)し、熟益の仏法である前四味等の爾前の諸経、および法華経迹門を説いて仏種を調熟(ちょうじゅく)させ、法華経本門の脱益の仏法を説いて成仏させたことを御指南されています。
 しかし、この五百塵点劫の釈尊とは、久遠元初(がんじょ)の本仏の垂迹仏(すいしゃくぶつ)であり、その垂迹仏の釈尊に結縁した衆生は、そのもと久遠元初において、本仏より本因下種の妙法を植えられた本已有善(ほんいうぜん)の衆生であるということを知らなければなりません。
 久遠元初に本仏の下種を受けて信受した順縁の衆生は凡夫即極(そくごく)の即身成仏を遂(と)げ、自受法楽(じじゅほうらく)の境界に住(じゅう)しました。しかしながら、途中(とちゅう)悪知識に値(あ)って退転した衆生や、当初(とうしょ)より誹謗(ひぼう)した逆縁(ぎゃくえん)の衆生は、本仏の垂迹仏である色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の釈尊により、五百塵点乃至(ないし)中間(ちゅうげん)において調熟され、インド出現の釈尊の法華経本門を聴聞(ちょうもん)して久遠元初の仏種を覚知(かくち)し、成仏することができたのです。
 そして、大聖人が『曾谷入道殿許御書』に、
 「正・像二千余年には猶(なお)下種の者有り(中略)今は既に末法に入(い)って、在世の結縁の者は漸々(ぜんぜん)に衰微(すいび)して、権実(ごんじつ)の二機皆(みな)悉く尽きぬ」(平成新編御書 七七八頁)
と仰せのように、久遠元初に下種された本已有善(ほんいうぜん)の衆生は、在世及び正像二千年の間に悉(ことごと)く得脱(とくだつ)したのです。
 ゆえに末法は、未(いま)だ本因(ほんにん)下種の妙法を植えられたことのない本未有善(ほんみうぜん)の衆生に対して、久遠元初と同様、久遠の本仏によって、新(あら)たに衆生の心田に仏種を下されるべき時なのです。
 大聖人は『本因妙抄(ほんにんみょう)』に、
 「今日(こんにち)熟脱の本迹(ほんじゃく)二門を迹と為(な)し、久遠名字(みょうじ)の妙法を本(ほん)と為す。信心強盛にして唯(ただ)余念(よねん)無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即(すなわ)ち仏身なり。是を天真(てんしん)独朗(どくろう)の即身成仏と名づく」(平成新編御書 一六七九頁)
と仰せです。
 末法の一切衆生は、久遠元初本因下種の法体(ほったい)である南無妙法蓮華経の御本尊を受持し、信心に退転なく唱題に励むことによって、種・熟・脱の三益(さんやく)を同時に具(そな)える名字本因下種の利益をこうむり、即身成仏の境界を得(え)ることができるのです。